考える葦への道のり

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謙虚さ

しばらくブログを書くのをさぼってしまった…

今日、新聞かなんかで「本を読んだ後にアウトプットをしっかりするといいよ!」みたいなことが書いてあったのでやる気が再燃しました。

代表的日本人

○中江藤樹(1608-1648)
この人の考え方が非常に好き。
彼はどんな聖賢の教えであっても、現状に合っていないと感じたらただ盲目的に信じるだけでなく自分で考え、修正していく。これは、彼の言葉を借りれば「道と法の違いで、法は時により、聖賢によっても変わるが、道は変わらない」ということなのだろう。

自分自身が出来てないのであれだが、どんな優秀な人のいうことであってもそれを盲目的に信用することは非常に危険である。「絶対的な人がいて、その人のいう事は絶対である」。これは危険な宗教団体みたいで、ファシズム的だ。
「信じるものは救われる」や「南無阿弥陀仏を唱えればよい」という言葉が私は好きではない。多分これらの言葉には本質的には素晴らしい意味がこめられているのだろう。
しかし私にはこの言葉は「考える」ことからの逃避にしか聞こえない。ただ唱えればいい、ただ信じればいい。そして自分で何も考えられなくなったときファシズムは簡単に起りうる。

「システム化されることにより、人間は想像力を失い、良心を失う。」
by 伊坂幸太郎『モダンタイムス』


重要なことはしっかりと自分で考えること。ただ言われたことを実行するだけなら、充電式の機械にでも任しておくべきだ。

話がそれてしまったが、中江藤樹の話に戻ろう。
彼は”徳”とくに”謙徳”というものを非常に大切にした。このあたりは西郷隆盛と通づるところで、私が非常に好きな所だ。

謙虚という意味は次のような意味らしい。
「ひかえめでつつましやかなさま。自分の能力・地位などにおごることなく、素直な態度で人に接するさま。」(大辞林)

謙虚であるということは非常に難しい。22年間の経験上(浅)
成功を積み重ねると、どうしても調子に乗ってしまうところがあるし、「このことについてはお前よりもよっぽど詳しいし!」みたいな感情をいだいっちゃったりする。しかしどんなことでも自信がないという状況もだめだ。この「自信を持ったまま謙虚になる」ということがいかに難しいかという事である。

このことについて書道家の武田早雲さんのブログに興味深いことが書いてあったので引用させていただく。

『人と比べて、どちらが上か下かを考えるからおかしなことになるんだと思います。「自然な謙虚」になるには人と比べないこと。つまり、今の自分の実力より上を目指している人は自然と謙虚になるということになります。そういう人は他人に対しては、自然でフラットな態度になるでしょう。誰に対しても。志が高ければ、自然と「今の自分はまだまだです」ということになります。人と比べて「まだまだ」という意味と、志へ向かっての「まだまだ」ですは、同じ言葉でも意味が全く異なります。』

〜名台詞〜
仁・義・礼・智・信の
思慮・叡智、正義、忍耐・勇気の四元徳

「利益をあげることだけが人生の目的ではない。それは正直で、正しい道、人の道に従うことである」

「私どもは、古いものがあらゆる面で新しいものより優れていると言うわけではない。ただ、古いものが必ずしもすべて悪いものではなく、新しいものが必ずしもすべて良いものでも完全なものでもないと言うにすぎない。新しいものには、まだ改良される余地があり、古いものには、まだ再活用される要素があるのである。」

「人は誰でも悪名を嫌い、名声を好む。…小人は小善のことを考えない。大善は名声をもたらすが小善は徳をもたらす。世の人は、名を好むために大善を求める。…君子は多くの小善から徳をもたらす。実に徳にまさる善事はない。」


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